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第5章 少し見えてきた・・・。
 翌朝、鎌倉の植木屋に出社した。すると50〜60才前後の地下タビ履いたおっさん達が、
ずらーっと7〜8人焚き火にあたっていた。それからもう1人、小柄な80才位のおじいちゃんも
地下タビ履いて立っていた。「中西です。今日からお世話になります。よろしくお願いします。」
みんな焚き火に目を向けたまま、「ハイどーも。」みたいな感じで・・・。
 その日は女子高の植木の手入れ作業だった。俺は歩道沿いの大きな杉の木に登って上から枝を落とす職人さんの手元で、歩行者を止めたり、ロープを引っ張ったり枝を運んだりしていた。木の上から、「オーイ、お兄ちゃんヨー、でっかい枝落とすからヨー、歩行者気を付けてくれヨー。」とか、「ロープ早くほどいてくれヨー!」とか、「オーイ、もたもたしてんなヨー!」とか怒鳴られながら走り回っていた。休憩時間にその職人さんに、ロープの結わき方を色々教わった。その職人さんは元自衛官で海軍にいたらしく、定年後植木職を始めた人だった。そんな元海軍の職人さんが他にも3人いた。だからみんな年の割りにスタミナもあったし、ロープワークとかもすごいもんがあった。その人達にはいろんな事を教わった。海軍時代の話を聞かされるのはちょっと面倒だった。南極に行った時はこうだったとか、日付変更線を越える時のラッパの演奏はたまらねーとか、最初はおもしろかったけど何回も聞かされるとねー、つらいよ。4人揃うと話は止まらなかった。
それから小柄のおじいちゃんというのがすごい職人だった。この人に出会ったのは俺にとって
大きかった。まず自分のことを「アタシ」と言い、職人としての振る舞いなんかはかっこいいものがあった。「植木屋は品が良くなきゃ。馬鹿じゃできねーからよ。」が口癖だった。お客さんから出される10時と3時のお茶菓子の食べ方や、漬物が出された時はまずくてもうまかったような顔をして残さず食べるか、もしくは見えないトコで弁当箱に入れて持って帰れみたいなことも言ってた。もう80才過ぎてるのに、ハシゴと丸太を使って松の手入れなんかもやってた。
親方も早く俺に仕事を覚えさせる気だったのか、そのおじいちゃんと週に3日以上は現場を一緒にしてもらってた。色々植木の話や石の話などを聞かせてくれた。石を運ぶ時や植木をかつぐ時などの縄さばきなんかもすごいもんがあった。ちょっとしたコツというか知恵というか、そういうのに日々触れられるのが何よりも楽しかった。ただ口うるさかったなー。特に俺には。道具
ひとつ会社に忘れて現場に行った日には大変だった。その忘れた道具がないから時間がかかるとか、やりにくいとか、一日中グダグダ言われたものだった。俺も若くて素直にハイハイ言ってたから言われ放題だった。
 親方はこれまた口数のやたら少ない人で、「まずやってみろ。」みたいな感じの人だった。庭石とか灯篭とかがすごい好きな人で、やたら収集していた。だから石工事も多かった。石の割り方とか、積み方とか最初にちょっと教えてもらって、「後やっとけ。」みたいな感じで。それで
たまに現場に戻ってきてダメなトコを直していく。「無駄な事してんなー。最初から現場にいて
一緒にやればいいじゃん。」て思ってた。忙しかったのもあるだろうけど、今思うと、やらせたかったと言うか、考えさせたかったのかなーと思う。親方の指示通り現場でハイハイ言ってやるのもいいけど、自分の知る限りの知識とセンスでまずやらせたかったんだと思う。まあまだその時の俺にはその時期としては早かったかもしれないけど・・。だから楽しかったなー。何でもおもしろいトコやらせてくれるワケだから。鎌倉市の公共工事も結構やっていて、完成までに
10年位かかる大きな公園工事もあった。もう完成してんだろーなー。町屋の仕事もいいお客さんが結構いて、庭を作り変えたり竹垣作ったり色々と勉強させてもらった。鎌倉の植木屋に
移って2年位過ぎた頃、庭職の本場、京都に何度か足を運んでいた。
  
―京都の親方との出会い、独立までの歩みなど只今続編執筆中―
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第1章 なぜ俺は植木屋になったのか・・・? 第2章 目覚め
第3章 庭修行本格スタート 第4章 いざ鎌倉・・・。
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